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一般現況

槐山紹介 一般現況

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一般現況

郡の象徴 (鳥, 花, 木)
    • カササギ
      • 郡の象徴
    • カササギ
    • ウチワノキ · ホウセンカ
    • ウチワノキ · ホウセンカ
      • 郡の象徴
    • ケヤキ
    • ケヤキ
      • 郡の象徴
  • 面積: 842㎢ (忠清北道の11.3%)
  • 人口: 36,590名(2024. 1. 1. 基準)
  • 行政区域および行政機構
    • 行政区域 : 1邑10面282里883班
    • 行政機構 : 2室10課2直属機関2事業所、1邑10面
    • 公務員数 : 618名(本庁·事業所429、邑面176、議会13名)
  • 学校および会社
    • 学校 : 25校(小14、中8、高校2、大学1)
    • 会社 : 182社2,964名
  • 指定文化財: 74点(宝物7、史跡2、天然記念物7、名勝地1、その他57)
  • 予算規模: 5,673億ウォン (2023年本予算)
    • 一般会計: 5,116億ウォン(90.18%)
    • 特別会計: 557億ウォン(9.82%) ※ 財政自立度 → 9.28%

地域特性

  • 国土の中心(全国2時間帯)
    • 中部内陸高速道路通過(槐山·延豊IC)、中部高速道路、清州空港と隣接
  • 四季を通して美しい槐山
    • サンマギ旧道、忠清道両班道、華陽·雙谷渓谷、槐山峠、成仏山山林休養団地など
  • 伝統文化と、品格のある文化財(指定文化財 73点)
    • 忠愍祠、尤庵宋時烈遺跡、洪範植古家、覚淵寺
  • 全国最高品質の環境にやさしい有機農特産物生産
    • 唐辛子、デハクチャル · トウモロコシ、白菜漬け、韓牛、高麗人参、リンゴ、タバコ、雑穀、豆

地域名称の沿革および/由来

  • 沿革
    • ①仍斤内郡
      高句麗 (475)
    • 槐壌郡
      新羅 (757)
    • ③槐州郡
      高麗 (940)
    • ④槐山郡
      朝鮮太宗 (1413)
  • 由来
    • 新羅真平王 28年(606) 将帥賛德(チャンドク)が椵岑城で百濟軍に100日間、攻撃を受け、城は完全に孤立したが、賛德は降伏せず、城の中のケヤキに頭をぶつけて自決した。太宗武烈王(金春秋)は賛德将軍の志を称えるため、「椵岑城」を「槐壌」と呼ぶことにした。

槐山の歴史概要

日本による占領統治からの解放以後
  • 1963.1.1: 槐山郡上芼面が中原郡に編入され、聞慶郡籠岩面三松里1ヵ里が青川面に編入
  • 1973.7.1: 槐山郡仏頂面文等里が陰城郡蘇伊面に編入、中原郡利柳面河文里が仏頂面に編入、清原郡北二面楚中里が曽坪邑に編入、甘勿面倹承里が槐山面に編入
  • 1979.5.1: 槐山面が邑に昇格
  • 1990.12.31: 忠清北道条例第1864号として、槐山郡所属の曽坪邑と道安面の行政を分離し、道の直属機関の忠清北道曽坪出張処で管轄
  • 2003.8.30: 槐山郡曽坪邑、道安面が曽坪郡に分離
解放以前

朝鮮末期まで槐山郡、延豊県、清安県と忠州、清州などに分かれていた槐山地域は、日本占領統治時代の1910年9月3日に断行された地方管制の制定により、今日のような編制になり、1914年 3月、行政区域統廃合により槐山、延豊、清安を統合し、槐山郡に編制された。

朝鮮時代

朝鮮初期に入り、槐山地域は高麗末期の楊廣道から忠清道へと、その管轄が変更され、そのほとんどは忠清左道に属していた。すなわち、左道の牧であった忠州牧管轄の槐山郡と延豊県、清州牧管轄の清安県から構成された。槐山郡は朝鮮太宗3年(1403)に知槐州事に昇格したが、同 13年(1413)10月15日に槐山郡と名称を変えた。

高麗時代

高麗成宗14年(995)の地方制度整備後、槐山は忠州、清州など13州45県から構成された中原道に属していたが、以後、顕宗9年(1018)に槐山地域は忠州牧の属郡の槐州郡と属県の長延県、長豊県および清州牧の属県の靑川県、清安県、清唐県などから構成され、成宗時代には始安という別称で呼ばれた。

三国時代

『三国史記』地理志によると、青川を除いた槐山、延豊、清安地域は、本来百済領であったが、高句麗領になった後、新羅の三国統一により新羅に統合された。三国が衝突する地理的条件のため、三国の戦場ともなった。本来、高句麗の仍斤内郡であったが新羅景徳王の時代に槐壌郡と改称。

先史時代

槐山郡に関する最も古い記録は『三国史記』であり、すでに先史時代以来、ある程度の住民たちが住んでいたことが、各地域で出土した青銅器時代の磨製石剣(カンドルゴム)、石斧、石鏃、支石墓などから推測することができる。

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